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養心女子学園での講義

 15日(月)には、生長の家養心女子学園で聖典講義を行いました。養心女子学園とは、生長の家の教えに基づく、女性のための専門学校です。そこで、私が所属している教化・講師部講師課の講師の1人が毎月1回、講義に行くことになっています。それで今月は私の担当だったのでした。

 養心女子学園は山梨県の河口湖町にあり、JR河口湖駅から歩いて15分ほどのところにあります。講義は2時からですが、少し早めに到着できるよう、11時10分新宿発のバスに乗り、1時少し前に河口湖駅に到着。バスを降りて驚きました。立派なカフェとお土産屋さんが出来ていて、駅がすっかり変わっているのです。しかし木のぬくもりを感じさせてくれる木造の建物でしたので、あまり違和感を感じませんでした。それから歩いて、学園まで行きました。気温は9度ぐらいでしたが、それほど寒さは感じず、コートなしで大丈夫でした。

 養心女子学園には英語の講師として2004年、2005年に伺ったことはありましたが、それ以来なので5年ぶりです。また、話す内容も日頃とは違うので、今回は少し念入りに準備をしました。今回、テキストとして指定された書籍は、生長の家創始者、谷口雅春先生のご著書『生命の實相』頭注版第11巻で、当該頁は182頁から197頁です。

 この部分では、谷口雅春先生と何人かの信徒の方が座談会をしている場面で、その中のお1人の方が、イエスという人の実在性に疑問を呈し、福音書はイエスの使徒で、諸地方を旅したパウロが仏教の思想などを学んでそれをイエスに結びつけて造り上げたものではないか、という考えを披瀝しています。その後、別の方が、キリスト教の牧師さんにお会いしたとき、キリスト教が仏教よりも優れているのは、イエスという実在した神の子が説いた点である。それに対して仏教は、阿弥陀とか、大日如来と言ってもそれは釈迦が説いただけであって実際にいるのか分からないのであるから、ということを聞いたのだけれども、それはいかがなものでしょうか、という質問を投げかけたのでした。

 その質問に対する谷口雅春先生のお答えは非常に明快で、ポイントとなるものは、以下の5つだと思います:

1.生長の家では肉体は念の投影であり、その実在性を認めないので、イエスが歴史上の人物であったが故に、そのイエスの教えたるキリスト教が古今独歩で尊いというような議論は、生長の家から見れば取るに足りない議論。

2.未だイエスが完全に歴史的人物であるという確証をあげた人もなく、さらに聖書がイエスの教えどおり一言一句異わずに書かれていると確証をあげた人は一人もいない。

3.新約聖書は、何人もの人が書いた合作である。また、イエスが使っていたのは「アラム語」であるが、聖書の原書はギリシャ語で書かれている。また、原典は各章の各節が区分されておらず、句読点も曖昧である。その他、色々の書き足しや、削除があって現在の形になっている。

4.また、たとえイエスが歴史上の人物であったとしても、弟子は師のことを脚色して書くのものだから、それが本当かどうかは疑わしい。随って、『新約聖書』の偉大さはイエスが歴史的人物であると否とのごとき問題ではない。しかし、イエスを歴史的人物として否定するものではない。そんなことは問題にするに足りない。

5.真理は誰が説いても尊い。生長の家の神示には、「誰にてもあれ、生命の実相を説くところにわれは顕われる」とある。誰が説いても真理を説けばそこに神は顕れられる。なぜなら、神は真理そのものであるから。

 私は『生命の實相』は通算で6回は拝読していますし、この第11巻はもう少し拝読しているはずなので、これまでもこの箇所は拝読していはいるのです。ところが、生長の家総裁、谷口雅宣先生のエッセー「青年イエスの謎」(『ちょっと私的に考える』に含まれている、1999年に書かれたエッセー)を拝読した後に拝読すると、谷口雅春先生はすでに、何十年も前から、「史的イエス」について説いておられたことに気づき、驚きました。(続く)

 阿部 哲也

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