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祖父の旅立ち(3)

 弔辞で述べた以外で、私の記憶にある祖父は、自転車に沢山、生長の家の月刊誌を積んで人々に配る愛行に出かける場面と、ロッキングチェアに座って、『生命の實相』や『真理』などの聖典を読んでいる姿です。祖父は、「真理」そのものがズバっと書かれている本が好きで、とりわけ『生命の實相』第21巻を繰り返し繰り返し拝読していました。

 私が生長の家を勉強し始めたのは18歳のときで、郷里の静岡を離れて名古屋で下宿して浪人生活を始めたときでした。それから祖父と会うと、祖父は『生命の實相』第21巻(経典篇)を読むよう、勧めてくれたものです。その本は生長の家の経典である聖経『甘露の法雨』を創始者、谷口雅春先生が解説されたもので、人間とは何か、神とは何か、人生とは何かについて、詳しく説かれています。私は祖父の助言に従って、『生命の實相』全40巻の中でも経典篇は何度も拝読し、み教えへの理解を深め、感動を新たにしたのを覚えています。

 それでこの度、祭壇に飾られた祖父の写真を見ていると、『生命の實相』第21巻を読みたいという気持ちが湧いてきたので、早速読み始めました。確かに、人間とは深淵な真理が、分かりやすい言葉で書かれていて、読み応えがあります。毎日、何頁かを紐解いています。

 この本の中には、念が既に肉体を離れてしまってからも肉体は生きているが、その念の投影が終わると臨終ということになる、それが1カ月以上も前に念がこの世を去っていても肉体が生き続けることもある、と書かれたところがあります。(54~65頁をご参照ください)

 祖母によると、祖父が亡くなった日、祖父がそれまでとは全く違った表情をして空の一点を見つめ、それを何度か指さしたのだで祖母が「どうしたの? 何か見えるの?」と聞いても何も答えなかったそうです。その後、祖父はぐったりとしてしまい、ほとんどの時間寝ていたそうです。そして、看護婦さんが気づいたときには既に息をしていなかった、とのことでした。祖父の念がいつ去ったのかははっきり分かりませんが、何事にも几帳面に取り組んだ祖父のことですから、この世での課題を全て成し遂げて、準備万端で霊界に移行したのだと思います。

 私はハワイにいたときに、生長の家の信徒の遺族の方からご葬儀を依頼されたことが何度もありました。海外では生長の家の本部講師がご葬儀を執り行うことは珍しいことではありません。そして、ご葬儀とセットで50日祭(仏教では49日ですが)を行います。最初は葬儀をするなんて、ととても負担になりましたが、何度も何度もご葬儀と50日祭をして、約50日の間に、この世で起こった出来事を映画のように見て、反省すべき所は反省し、この世の成績に従って一番相応しい霊界に行く、ということをご遺族に説明していると、心の底から、「この御霊様は生きておられる。往生とは生きて往くことである」という感を自分自身が深くしたものでした。祖父は生前、神想観や聖経読誦が大好きで、生長の家の雑誌を配ったりして伝道したのはもちろん、人知れず深切を行ずる人でしたので、とても幸せな境涯に置かれると思います。

 祖父の葬儀があった日、娘は遠足の日でした。それまでペアを組んで、入学以来、毎朝のようにお世話をしてくれた6年生と一緒に遠足に行くことを心待ちにしていた娘にとって、遠足に行けなかったことはとても残念なことでした。しかし、身近な人の死を経験することは、とても大切なことで、娘にとってはとても貴重な機会となったと思います。人が死んでしまうと、冷たくなってしまうこと、肉体は焼いてしまって、骨だけをお箸で拾って骨壺へ入れ、お墓の下にしまうこと、そして家族や縁のある方が集まって葬儀をし、故人を偲ぶこと。。。これらは、人生では避けて通れない課目であり、娘にとっては、死んだ人の肉体が焼かれてしまうことにとても衝撃を受けたようでした。ご先祖様から受け継がれているいのちの尊さを、少しずつ娘に話していこうと思っています。

 阿部 哲也

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祖父の旅立ち(2)

 6月1日に他界した祖父の通夜は6月2日に、葬儀は3日に法蔵寺という堅田家の菩提寺で厳かに執り行われました。2日の夜に対面した祖父は、とても穏やかで、安らかな表情で、まるで眠っているようでした。通夜が終わり、会葬してくださった方々が帰ると、それまで静かにしていた祖父のひ孫たちの“運動会”が始まりました。小学校1年生が3人いますので致し方ありません。祖父も、微笑みながら見守ってくれていたと思います。

 祖父の戒名は、「實相院緑壽慈豊居士」。お寺で付けて頂いた戒名に「實相」の文字があることに、家族一同、驚きを隠せませんでした。生長の家の信仰に触れて75年、み教え一筋に生きてきた祖父に相応しいものと感謝しています。

 祖父の体は祖父が生前好んできていた紫色の着物に着替えられ、遺体には沢山の花が添えられました。また、多くの方のご愛念で沢山の花輪で祭壇が飾られました。祖父は花がとても好きな人でしたので、祖父も喜んでいると思います。

 葬儀では弔辞として、4人のひ孫がそれぞれかわいらしくお別れの言葉を述べ、私も孫の代表として述べさせていただきました。当日は原稿を見ないで写真に語りかけようと思ったのですが、写真に写った優しく微笑んだ祖父の顔を見ると思いがこみ上げ、涙が溢れてくるので、話している間はあまり写真を見ることができませんでした。そのときに作ったドラフトを下記に掲載いたします:

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 私がおじいさんが亡くなったを知ったのは、札幌への出張中、仕事が終わり、札幌駅近くの駅で電車を待っているときでした。母から届いた短いメールでした。その後、羽田行きの飛行機に乗りましたが、空席が多かったので窓側の席を取り、外の景色を眺めていました。するとそこには、どこまでも続く美しい雲海、夕暮れに沈む太陽が山々を照らし、この世のものとは思えない、美しい、荘厳な風景が眼前に広がっていました。私はそのとき、「ああおじいさんは神様、仏様に守られ、静かにこの世界から旅立ち、こんな美しい世界にいるんだなあ」という感慨に満たされていました。そして、おじいさんは幸せの最中にいる、という何とも言えない温かい感情がわき上がってきました。そして、おじいさんとの様々な思い出が次から次へと心に浮かび、涙が溢れてきました。飛行機の隣とその隣の席に誰もいなくて良かったです。。。

 小学生の頃、おじいさんのお家によく遊びに行きました。そして夏休みや冬休みには泊まりに行ったのですが、平日に泊まるときには大好きなおじいさんに早く会いたくて、おじいさんが自転車で帰ってくる道を迎えに行ったものです。それでおじいさんの自転車の後部に乗せてもらって帰ってくるのを楽しみにしていました。ところがある日、おじいさんはいつもと違った道を通り、僕に会わずに家に着いてしまったのです。僕が迎えに出ていることをおばあさんから知らされたおじいさんは、スーツのまま自転車にまたがり、また戻って、いつもの道を通り、何食わぬ顔で僕を乗せて帰ってくれましたね。後からおばあさんから聞きました。

(祖父の旅立ち(1)で紹介した内容の概略を述べた上で)おじいさんは、信仰を口で語るだけではなく、信仰を生活にそのまま生きるお手本のような人でした。信仰者としてはおじいさんの足もとにも及びませんが、おじいさんが身をもって生きて、伝えてくれた生長の家の信仰を僕も生き、微力ながら伝える活動にまい進していきたいと思います。

 2000年を前にした年末年始、おじいさんはおばあさんと、僕の両親、そして僕、妹2人、それぞれの配偶者総勢10人を沖縄旅行に招待してくれました。豪華なホテルに宿泊し、飛行機もファーストクラスでの移動と大盤振る舞いでした。私たち兄弟が結婚して、家族が増えるとおじいさんはますます、家族の精神的な中心になっていきましたね。それは威張ったり、権威ぶってそうなったのではなく、おじいさんの包容力と徳によって、自然に、皆がおじいさんの周りに集まってくるようになりました。

 僕が2007年から2010年までハワイに行っている間、少しずつ体の機能が衰えていきました。僕はその3年間、一度も日本に帰国する機会がなかったので、おじいさんの体のことは聞いていましたが、電話でおじいさんに「ハワイに来てね」と言うと、「そうだね、ハワイに行きたいね~」と元気に答えてくれましたね。おそらく、それは無理だと言うことは分かっていたのでしょうけど。おばあさんが生長の家本部を退職してから献身的な介護をしたのをはじめ、多くの家族がおじいさんの介護を通して、心が一つにつながっていきました。これもおじいさんが、身をもって家族の大切さを教えてくれたのですね。先ほど、このお寺に献資した人のお名前が貼られているボードがあったのですが(献資額の多い順に記載)、おじいさんの名前は一番前の方にありました。見えないところで、いつも愛行、献資をしていたのですね。

 昨年、日本に帰国し、今年の正月にようやく家族でおじいさんに会うことができました。そのときは家族全員がそろい、14名で賑やかに、楽しい時を過ごしましたね。それから1カ月もしない、1月の下旬、僕は出張で滋賀県に行ったのですが、どうしてもおじいさんに会いたくなり、出張前の時間を使って2時間ほど、おじいさんのおうちに寄りました。おばあさんの手料理を頂いて、色々と話をして、おじいさんが「哲也、毎月来てくれよな」と言ったので、「そうだね、毎月は難しいけど、出来るだけ来るようにするよ」と言って、出張先へと向かいました。それが今生の別れになってしまいました。

 93年の長きにわたり、真摯に教えを学び、行じ、伝え、家族を心から愛し、世のため、人のために労を惜しまない、人生の範を示してくれました。生長の家では、人間は死なない、永遠不滅の生命であることを教えていただいています。毎朝、おじいさんの大好きだった聖経『甘露の法雨』を読み、おじいさんを招霊しますから、聞きに来てくださいね。そして家族を、生長の家の人類光明化運動・国際平和信仰運動を導いてください。

 おじいさんへの思いは尽きませんが今日はこの辺で。ありがとう。おじいさん。

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祖父の旅立ち

 去る6月1日、母方の祖父、堅田豊が他界しました。享年93歳でした。私は今年の3月に生長の家が提供するラジオ放送「幸福への出発」を担当させていただきましたが、第2週目の放送で祖父の体験を紹介しながら、教義の解説をさせていただきました。祖父の入信のきっかけ等にも触れているので、その部分を以下に転載させていただきます。なおこの原稿を用意したのは、昨年12月です。

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 ところで、私の家族は両親をはじめ、多くが生長の家の信仰者ですが、とりわけ母方の祖父と祖母は大変熱心な生長の家の信仰者であり布教者です。祖父は生長の家が創始されて10年も経たない昭和10年代のはじめ、肋膜炎のため自宅療養をしていたとき生長の家に触れました。姉の婚家先の書棚にあった創始者、谷口雅春先生のご著書『生命の實相』を見つけて、「病気は本来ない」「認めたものが現れる」などの真理に大変感銘を受けたのです。そして、「私は神の子だから病気は本来ない。健康なのが当り前なのだ」との自覚を得、次の日から職場に出勤し、それ以来健康になってしまったという体験を持っています。それから、祖父は住まいのある静岡から東京に出たときには、当時、赤坂にあった生長の家の道場に通って、谷口雅春先生のご講話を聞くなどして信仰を深めるようになりました。

 祖父はそれ以降も熱心に教えを学び、また多くの人にこの教えを伝えたいとの思いが強く、ボランティア講師である地方講師にもなり、一層、伝道に励んでいました。昭和50年代のはじめ、祖父が会社勤めをしていたときのことです。その会社の社長さんは、生長の家のことを大変理解してくださっていて、祖父が生長の家の幹部をしていることを知り、「それは人のためになることだから大いにやってください」ととても喜んでくれるような人でした。ところがある日、その会社の社長さんが突然亡くなってしまったのです。その後、その会社は事情があって整理されることになりました。

 祖父はそれでも、「大丈夫。どんなことが起こっても必ず良くなる」と信じて疑わなかったそうですが、祖母はその後のことを考えると、とても心配でした。社長亡き後の業務整理を、他のどの社員よりも熱心にしていた祖父は、ある日会社から祖母に電話をかけて、「今日は素晴らしい日だから、お赤飯と鯛でお祝いの用意をしておいて」と言ったそうです。それで祖母は、祖父の新しい就職先が決まったのだと思い、「どんなことがあったのですか?」と聞いたら、「今日で、会社のことは全て整理がついた。僕は今日から失業者だ。神様、ご先祖様に感謝して、新しい人生の出発を一緒にお祝いしよう」との答えでした。

 祖母は内心とてもがっかりしました。祖父はそのとき60歳の少し手前。車の運転はしない、ソロバン以外は使わない、ペンより重い物を持ったことのない人の就職先がどこにあるのか、と思ったのでした。その後、生長の家の布教活動を自由にやることができるようにと、小さな会社の経理担当者として勤務することになりました。

 その会社はしかし、経営がうまくいかず負債を抱えており、社長はときおり祖父に、お金を貸してくれるよう頼んだのでした。祖父はとても気持ちの広い人でしたので、社長の求めに応じて、少しばかりの貯金を出すようになりました。それで貯金がほとんど底をついた頃、こともあろうに、その社長が祖父が出したお金をもって行方不明になってしまったのです。しかし祖父はそれでも決して人を恨まず、自暴自棄にもならず、次のように祖母に言ったのです。「僕は前世で借金をしたのだけど、それを返さなかったのかもしれない。これで全部返済できたのだから有り難いことだね。これから良くなるぞ、益々よくなる。嬉しいね」と。念のために申し上げますが、生長の家では金銭の横領に対して社会的責任を問わなくてよい、と考えているのではありません。この事例では、何事かよくないことが起こったときでも、考えようによっては感謝の心を持つことができる、ということを示しているものです。

 さて、その後、間もなくして、ご縁があってリサイクルを専門にする会社への就職が決まりました。地球環境問題がクローズアップされている今でこそ、リサイクルを専門にする会社はいくらでもありますが、昭和50年代では大変珍しい会社でした。しかもその会社は、人材もリサイクルする会社で、当時社員はほとんどが中途採用者でした。祖父は当時60歳の手前でしたが、誠実な働きぶりが評価され、役員となり、給料も上がり、85歳でリタイアするまで元気でその会社に勤めることができたのです。ちなみにその会社のモットーは、「感謝の心」だそうです。

 祖父は、良い条件を与えられたから感謝をしたのではありませんでした。何事が起こっても人を責めず、恨まず、自分の心を反省し、そして感謝すべき点を見つけ、明るい心で努力をしたのでした。そのような祖父から生長の家を伝えられた祖母は、とても厳しい姑に対しても、徹底して礼拝と感謝の生活を送り、本当の親子以上の信頼関係を築き、100歳の誕生日を目前にあの世に旅立った姑の最期を看取ったのでした。そして、生長の家の教えを熱心に布教するようになり、やがて生長の家本部の職員となり、本部講師となり、女性の組織である生長の家白鳩会の副会長として東奔西走し、皆様から惜しまれながら、4年前に定年をむかえ、退職をしました。現在は、祖父を介護しながら、楽しく暮らしています。(引用終わり)

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