さようなら、ナッツ

 今日の未明、愛犬「ナッツ」が息を引き取りました。今月1日に15歳になったばかりでした。2001年10月にわが家に来たので11年半、一緒に暮らしたことになります。私は根っからの動物好きではありませんが、結婚生活16年のううち11年半ですので、家族を失ったような気がします。

 今月の1日から7日まで、妻と娘は実家のある千葉に帰省をしていて、練成会の運営の合間を縫って、朝晩、散歩をしました。(老犬なので1回の散歩は5分もすれば充分)練成会中はスピーカーを入れていましたので、起床放送から就寝放送まで全部聞いていたので、聞いた真理の言葉は相当の量になります。(家族は練成会があるとスピーカーで聞いていますので、10ヶ月間、聞いていました)

 そもそも、練成道場の寮でペットを飼うことは禁止されていますが、老犬でもあり、引き取ってくれる人もいないため、特別に許可を頂いて飼っていました。家内と娘の留守中(2日か3日)ナッツの夢を見ました。私がナッツを抱いて、指の爪を切っている夢です。とても嬉しそうにしていました。私がナッツの夢を見ることはとても珍しいことですので不思議な感じがしました。

 妻が不在の間、メールのやりとりをしましたが、私は意識していなかったのですが、メールの中でナッツのことに触れていることがいつもより多かった、と妻は話していました。妻の不在中、ナッツはずっと元気でしたし、食欲も旺盛で、うんこもしっかりとしていましたから、特に気にかかることはなかったのですが、今思えば、私の潜在意識は、分かっていたのではないかと思います。

 恐らく、ナッツの「念」は夢に出てきた時点で霊界に昇っていて、妻と娘が帰ってくるのを待ってくれていたのではないかと思います。また、練成中で忙しくしている私の手を煩わせないように配慮してくれたのだと思います。生前、元気ではありましたが、決して存在を主張せず、家族3人で話をしているときが一番幸せそうに、いびきをかいて寝ていることが多かった犬でしたから、3人が揃うのを待ってくれていたと思います。ちなみにナッツは、ハワイ駐在時はハワイに、そして今回も長崎に付いてきました。

 9日は朝から調子が悪く、妻が獣医に連れて行ったら、肝臓の状態が相当悪いとのこと。前日まではほとんど自覚症状はなかったからとても驚きました。時間が経つにつれて呼吸が荒くなり、息をするのが大変そうで、食べ物も受け付けなくなりました。それでも娘がスプーンでご飯を口元に持っていくと少しは口にしましたが。娘が生まれて、病院から家に来た日には、家の中を走り回り、ワンワン吠えて大騒ぎして歓迎をしていたのを昨日のように思い出します。

 夜になってぐったりとするようになり、今日(10日)の未明、午前3時頃、大好きだった家族3人の会話の中で静かに息を引き取りました。ちなみに4月10日は「無相円相一切相の神示」が天降った日。同神示は、「『死は無い』と言うのは肉体のことではない。現に肉体細胞は刻々死滅し流転(るてん)している。生き通しであるのは、斯くならしめている『生命』のみである。『生命』のみが吾れであり汝であり、そのほかに吾れも汝もないのである」などと、生命の不死について説かれている神示です。何か暗示的なものを感じます。

 人が沢山来ると喜んで家の中を走り回って興奮してお客さんにおしっこをかけてしまったこと、誌友会の参加者に混じって座布団の上に座り、それに気付いた参加者が大笑いしたこと、ハワイに連れて行ったとき、移動や検査その他で丸1日ぶりに現地で会ったとき、目尻を下げて喜んでいたこと、たまに好物の卵掛けご飯をあげたとき、食べ終わってから尻尾を振ってお礼にきたこと……思い出は尽きませんが、家族の一員として過ごした日々に感謝して、霊界で幸せに暮らせるようにお祈りしたいと思います。

 写真は今年1月、日向ぼっこをしているところを撮ったものです。

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山梨県北杜市に行きました

 去る8月18日から20日まで、山梨県北杜市に行ってきました。北杜市は2013年、生長の家本部が移転する予定の土地で、同年からは家族でそこに暮らすことになるので、行ってきました。今年1月に、本部職員と家族を対象に現地見学会が開かれ、家族と共に参加しましたが、そのときは僅かな時間しか滞在できなかったので、今回は3日間かけて、地元のスーパーに行ってみたり、娘が通う可能性のある小学校を見たり、下見のようなことを行いました。

 さいたま市を出発した18日は同市では36度の猛暑日でうだるような暑さでしたので、北杜市はどのぐらいの気温なのだろう、などと思いながら出かけました。着いたのは午後3時を過ぎた頃でしたが、出発地と比べればずいぶん爽やかな風が吹いていました。ただし家の中はやや、蒸し暑い感じでした。

 今回はホテルとかペンションではなく、貸別荘に泊まりました。リゾート地のホテルやペンションでは、食事がついていることが多く、そのボリュームが多すぎる場合が多いこと、部屋が狭いので朝早く目が覚めたとき、思うように部屋を使えないことなどがあり、食事がついていなくて、広い部屋が使える貸別荘にしました。1軒屋で2LDKの大きさでした。

 翌日はうって変わって肌寒い天候でした。その日は平地でも肌寒いぐらいの気候ですから標高1,000mの山ではなおさらです。昼間に訪れた牧場では気温が18、9度で、長袖を持ってこなかった私は半袖を4枚重ね着をしました。以前、ハワイでかかっていたお医者さんが、夜、寒く感じるときには(ハワイの夜は夏でもかなり涼しいのです)、半袖を何枚でも重ね着するとよい、その方が暖めるべきところが暖められるから、と教えてくれたことがあったのを思い出したのです。確かに肌寒い気候でもばっちりでした。

 その日は、娘が通う小学校の候補である長坂小学校と泉小学校を見学しました。と言っても特に予約してあったわけではないので外観を眺めるだけですが、どんなところにあるかを見ておきたかったのです。長坂小学校は2年後に、4つの小学校が統合して校舎も新しくなり、新しい学校に生まれ変わるそうで、工事が既に始まっていました。冷たい雨が降ってきていたので外からだけ眺めました。

 続いて泉小学校に行ってみると、校門の外に1人の先生が立ってて、実は再来年から北杜市に住む予定になっていて、通う可能性のある小学校を見たいと思って来ました、と伝えたらご丁寧に校内に入れてくださって、色々と学校の特色等を説明して下さいました。色々お聞きして、なかなか行き届いた学校だと思いました。そして驚くのは校庭が広いこと! その先生の説明によると、400mのトラックを引けるとのことでした。

 あと最終日には小淵沢の「絵本美術館」に立ち寄りました。原画の展示があったり、色々な絵本があり、子供と一緒に絵本を読んだりしました。雨が降っていなかったらお庭の木々を眺めながらテラスでコーヒーが飲めたのがちょっと残念でした。しかし雨の中の緑もまた美しいです。

 その他、毎日温泉に浸かり、道の駅でのんびり買い物をし、地元のスーパーでどんなものが売っているかを眺めたり、美味しそうなパン屋さんで次の日の朝食を買ったり、地元のイタリアンレストラン、ソバ屋さんで舌鼓を打ったりと、ゆっくりとした時間を過ごすことができました。有り難い夏休みでした。

 阿部 哲也

 写真は上から今回宿泊した貸別荘、牧場の風景、ヤギと遊ぶ娘です。娘は寒かったようでタオルを巻いています。

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祖父の旅立ち(3)

 弔辞で述べた以外で、私の記憶にある祖父は、自転車に沢山、生長の家の月刊誌を積んで人々に配る愛行に出かける場面と、ロッキングチェアに座って、『生命の實相』や『真理』などの聖典を読んでいる姿です。祖父は、「真理」そのものがズバっと書かれている本が好きで、とりわけ『生命の實相』第21巻を繰り返し繰り返し拝読していました。

 私が生長の家を勉強し始めたのは18歳のときで、郷里の静岡を離れて名古屋で下宿して浪人生活を始めたときでした。それから祖父と会うと、祖父は『生命の實相』第21巻(経典篇)を読むよう、勧めてくれたものです。その本は生長の家の経典である聖経『甘露の法雨』を創始者、谷口雅春先生が解説されたもので、人間とは何か、神とは何か、人生とは何かについて、詳しく説かれています。私は祖父の助言に従って、『生命の實相』全40巻の中でも経典篇は何度も拝読し、み教えへの理解を深め、感動を新たにしたのを覚えています。

 それでこの度、祭壇に飾られた祖父の写真を見ていると、『生命の實相』第21巻を読みたいという気持ちが湧いてきたので、早速読み始めました。確かに、人間とは深淵な真理が、分かりやすい言葉で書かれていて、読み応えがあります。毎日、何頁かを紐解いています。

 この本の中には、念が既に肉体を離れてしまってからも肉体は生きているが、その念の投影が終わると臨終ということになる、それが1カ月以上も前に念がこの世を去っていても肉体が生き続けることもある、と書かれたところがあります。(54~65頁をご参照ください)

 祖母によると、祖父が亡くなった日、祖父がそれまでとは全く違った表情をして空の一点を見つめ、それを何度か指さしたのだで祖母が「どうしたの? 何か見えるの?」と聞いても何も答えなかったそうです。その後、祖父はぐったりとしてしまい、ほとんどの時間寝ていたそうです。そして、看護婦さんが気づいたときには既に息をしていなかった、とのことでした。祖父の念がいつ去ったのかははっきり分かりませんが、何事にも几帳面に取り組んだ祖父のことですから、この世での課題を全て成し遂げて、準備万端で霊界に移行したのだと思います。

 私はハワイにいたときに、生長の家の信徒の遺族の方からご葬儀を依頼されたことが何度もありました。海外では生長の家の本部講師がご葬儀を執り行うことは珍しいことではありません。そして、ご葬儀とセットで50日祭(仏教では49日ですが)を行います。最初は葬儀をするなんて、ととても負担になりましたが、何度も何度もご葬儀と50日祭をして、約50日の間に、この世で起こった出来事を映画のように見て、反省すべき所は反省し、この世の成績に従って一番相応しい霊界に行く、ということをご遺族に説明していると、心の底から、「この御霊様は生きておられる。往生とは生きて往くことである」という感を自分自身が深くしたものでした。祖父は生前、神想観や聖経読誦が大好きで、生長の家の雑誌を配ったりして伝道したのはもちろん、人知れず深切を行ずる人でしたので、とても幸せな境涯に置かれると思います。

 祖父の葬儀があった日、娘は遠足の日でした。それまでペアを組んで、入学以来、毎朝のようにお世話をしてくれた6年生と一緒に遠足に行くことを心待ちにしていた娘にとって、遠足に行けなかったことはとても残念なことでした。しかし、身近な人の死を経験することは、とても大切なことで、娘にとってはとても貴重な機会となったと思います。人が死んでしまうと、冷たくなってしまうこと、肉体は焼いてしまって、骨だけをお箸で拾って骨壺へ入れ、お墓の下にしまうこと、そして家族や縁のある方が集まって葬儀をし、故人を偲ぶこと。。。これらは、人生では避けて通れない課目であり、娘にとっては、死んだ人の肉体が焼かれてしまうことにとても衝撃を受けたようでした。ご先祖様から受け継がれているいのちの尊さを、少しずつ娘に話していこうと思っています。

 阿部 哲也

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祖父の旅立ち(2)

 6月1日に他界した祖父の通夜は6月2日に、葬儀は3日に法蔵寺という堅田家の菩提寺で厳かに執り行われました。2日の夜に対面した祖父は、とても穏やかで、安らかな表情で、まるで眠っているようでした。通夜が終わり、会葬してくださった方々が帰ると、それまで静かにしていた祖父のひ孫たちの“運動会”が始まりました。小学校1年生が3人いますので致し方ありません。祖父も、微笑みながら見守ってくれていたと思います。

 祖父の戒名は、「實相院緑壽慈豊居士」。お寺で付けて頂いた戒名に「實相」の文字があることに、家族一同、驚きを隠せませんでした。生長の家の信仰に触れて75年、み教え一筋に生きてきた祖父に相応しいものと感謝しています。

 祖父の体は祖父が生前好んできていた紫色の着物に着替えられ、遺体には沢山の花が添えられました。また、多くの方のご愛念で沢山の花輪で祭壇が飾られました。祖父は花がとても好きな人でしたので、祖父も喜んでいると思います。

 葬儀では弔辞として、4人のひ孫がそれぞれかわいらしくお別れの言葉を述べ、私も孫の代表として述べさせていただきました。当日は原稿を見ないで写真に語りかけようと思ったのですが、写真に写った優しく微笑んだ祖父の顔を見ると思いがこみ上げ、涙が溢れてくるので、話している間はあまり写真を見ることができませんでした。そのときに作ったドラフトを下記に掲載いたします:

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 私がおじいさんが亡くなったを知ったのは、札幌への出張中、仕事が終わり、札幌駅近くの駅で電車を待っているときでした。母から届いた短いメールでした。その後、羽田行きの飛行機に乗りましたが、空席が多かったので窓側の席を取り、外の景色を眺めていました。するとそこには、どこまでも続く美しい雲海、夕暮れに沈む太陽が山々を照らし、この世のものとは思えない、美しい、荘厳な風景が眼前に広がっていました。私はそのとき、「ああおじいさんは神様、仏様に守られ、静かにこの世界から旅立ち、こんな美しい世界にいるんだなあ」という感慨に満たされていました。そして、おじいさんは幸せの最中にいる、という何とも言えない温かい感情がわき上がってきました。そして、おじいさんとの様々な思い出が次から次へと心に浮かび、涙が溢れてきました。飛行機の隣とその隣の席に誰もいなくて良かったです。。。

 小学生の頃、おじいさんのお家によく遊びに行きました。そして夏休みや冬休みには泊まりに行ったのですが、平日に泊まるときには大好きなおじいさんに早く会いたくて、おじいさんが自転車で帰ってくる道を迎えに行ったものです。それでおじいさんの自転車の後部に乗せてもらって帰ってくるのを楽しみにしていました。ところがある日、おじいさんはいつもと違った道を通り、僕に会わずに家に着いてしまったのです。僕が迎えに出ていることをおばあさんから知らされたおじいさんは、スーツのまま自転車にまたがり、また戻って、いつもの道を通り、何食わぬ顔で僕を乗せて帰ってくれましたね。後からおばあさんから聞きました。

(祖父の旅立ち(1)で紹介した内容の概略を述べた上で)おじいさんは、信仰を口で語るだけではなく、信仰を生活にそのまま生きるお手本のような人でした。信仰者としてはおじいさんの足もとにも及びませんが、おじいさんが身をもって生きて、伝えてくれた生長の家の信仰を僕も生き、微力ながら伝える活動にまい進していきたいと思います。

 2000年を前にした年末年始、おじいさんはおばあさんと、僕の両親、そして僕、妹2人、それぞれの配偶者総勢10人を沖縄旅行に招待してくれました。豪華なホテルに宿泊し、飛行機もファーストクラスでの移動と大盤振る舞いでした。私たち兄弟が結婚して、家族が増えるとおじいさんはますます、家族の精神的な中心になっていきましたね。それは威張ったり、権威ぶってそうなったのではなく、おじいさんの包容力と徳によって、自然に、皆がおじいさんの周りに集まってくるようになりました。

 僕が2007年から2010年までハワイに行っている間、少しずつ体の機能が衰えていきました。僕はその3年間、一度も日本に帰国する機会がなかったので、おじいさんの体のことは聞いていましたが、電話でおじいさんに「ハワイに来てね」と言うと、「そうだね、ハワイに行きたいね~」と元気に答えてくれましたね。おそらく、それは無理だと言うことは分かっていたのでしょうけど。おばあさんが生長の家本部を退職してから献身的な介護をしたのをはじめ、多くの家族がおじいさんの介護を通して、心が一つにつながっていきました。これもおじいさんが、身をもって家族の大切さを教えてくれたのですね。先ほど、このお寺に献資した人のお名前が貼られているボードがあったのですが(献資額の多い順に記載)、おじいさんの名前は一番前の方にありました。見えないところで、いつも愛行、献資をしていたのですね。

 昨年、日本に帰国し、今年の正月にようやく家族でおじいさんに会うことができました。そのときは家族全員がそろい、14名で賑やかに、楽しい時を過ごしましたね。それから1カ月もしない、1月の下旬、僕は出張で滋賀県に行ったのですが、どうしてもおじいさんに会いたくなり、出張前の時間を使って2時間ほど、おじいさんのおうちに寄りました。おばあさんの手料理を頂いて、色々と話をして、おじいさんが「哲也、毎月来てくれよな」と言ったので、「そうだね、毎月は難しいけど、出来るだけ来るようにするよ」と言って、出張先へと向かいました。それが今生の別れになってしまいました。

 93年の長きにわたり、真摯に教えを学び、行じ、伝え、家族を心から愛し、世のため、人のために労を惜しまない、人生の範を示してくれました。生長の家では、人間は死なない、永遠不滅の生命であることを教えていただいています。毎朝、おじいさんの大好きだった聖経『甘露の法雨』を読み、おじいさんを招霊しますから、聞きに来てくださいね。そして家族を、生長の家の人類光明化運動・国際平和信仰運動を導いてください。

 おじいさんへの思いは尽きませんが今日はこの辺で。ありがとう。おじいさん。

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祖父の旅立ち

 去る6月1日、母方の祖父、堅田豊が他界しました。享年93歳でした。私は今年の3月に生長の家が提供するラジオ放送「幸福への出発」を担当させていただきましたが、第2週目の放送で祖父の体験を紹介しながら、教義の解説をさせていただきました。祖父の入信のきっかけ等にも触れているので、その部分を以下に転載させていただきます。なおこの原稿を用意したのは、昨年12月です。

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 ところで、私の家族は両親をはじめ、多くが生長の家の信仰者ですが、とりわけ母方の祖父と祖母は大変熱心な生長の家の信仰者であり布教者です。祖父は生長の家が創始されて10年も経たない昭和10年代のはじめ、肋膜炎のため自宅療養をしていたとき生長の家に触れました。姉の婚家先の書棚にあった創始者、谷口雅春先生のご著書『生命の實相』を見つけて、「病気は本来ない」「認めたものが現れる」などの真理に大変感銘を受けたのです。そして、「私は神の子だから病気は本来ない。健康なのが当り前なのだ」との自覚を得、次の日から職場に出勤し、それ以来健康になってしまったという体験を持っています。それから、祖父は住まいのある静岡から東京に出たときには、当時、赤坂にあった生長の家の道場に通って、谷口雅春先生のご講話を聞くなどして信仰を深めるようになりました。

 祖父はそれ以降も熱心に教えを学び、また多くの人にこの教えを伝えたいとの思いが強く、ボランティア講師である地方講師にもなり、一層、伝道に励んでいました。昭和50年代のはじめ、祖父が会社勤めをしていたときのことです。その会社の社長さんは、生長の家のことを大変理解してくださっていて、祖父が生長の家の幹部をしていることを知り、「それは人のためになることだから大いにやってください」ととても喜んでくれるような人でした。ところがある日、その会社の社長さんが突然亡くなってしまったのです。その後、その会社は事情があって整理されることになりました。

 祖父はそれでも、「大丈夫。どんなことが起こっても必ず良くなる」と信じて疑わなかったそうですが、祖母はその後のことを考えると、とても心配でした。社長亡き後の業務整理を、他のどの社員よりも熱心にしていた祖父は、ある日会社から祖母に電話をかけて、「今日は素晴らしい日だから、お赤飯と鯛でお祝いの用意をしておいて」と言ったそうです。それで祖母は、祖父の新しい就職先が決まったのだと思い、「どんなことがあったのですか?」と聞いたら、「今日で、会社のことは全て整理がついた。僕は今日から失業者だ。神様、ご先祖様に感謝して、新しい人生の出発を一緒にお祝いしよう」との答えでした。

 祖母は内心とてもがっかりしました。祖父はそのとき60歳の少し手前。車の運転はしない、ソロバン以外は使わない、ペンより重い物を持ったことのない人の就職先がどこにあるのか、と思ったのでした。その後、生長の家の布教活動を自由にやることができるようにと、小さな会社の経理担当者として勤務することになりました。

 その会社はしかし、経営がうまくいかず負債を抱えており、社長はときおり祖父に、お金を貸してくれるよう頼んだのでした。祖父はとても気持ちの広い人でしたので、社長の求めに応じて、少しばかりの貯金を出すようになりました。それで貯金がほとんど底をついた頃、こともあろうに、その社長が祖父が出したお金をもって行方不明になってしまったのです。しかし祖父はそれでも決して人を恨まず、自暴自棄にもならず、次のように祖母に言ったのです。「僕は前世で借金をしたのだけど、それを返さなかったのかもしれない。これで全部返済できたのだから有り難いことだね。これから良くなるぞ、益々よくなる。嬉しいね」と。念のために申し上げますが、生長の家では金銭の横領に対して社会的責任を問わなくてよい、と考えているのではありません。この事例では、何事かよくないことが起こったときでも、考えようによっては感謝の心を持つことができる、ということを示しているものです。

 さて、その後、間もなくして、ご縁があってリサイクルを専門にする会社への就職が決まりました。地球環境問題がクローズアップされている今でこそ、リサイクルを専門にする会社はいくらでもありますが、昭和50年代では大変珍しい会社でした。しかもその会社は、人材もリサイクルする会社で、当時社員はほとんどが中途採用者でした。祖父は当時60歳の手前でしたが、誠実な働きぶりが評価され、役員となり、給料も上がり、85歳でリタイアするまで元気でその会社に勤めることができたのです。ちなみにその会社のモットーは、「感謝の心」だそうです。

 祖父は、良い条件を与えられたから感謝をしたのではありませんでした。何事が起こっても人を責めず、恨まず、自分の心を反省し、そして感謝すべき点を見つけ、明るい心で努力をしたのでした。そのような祖父から生長の家を伝えられた祖母は、とても厳しい姑に対しても、徹底して礼拝と感謝の生活を送り、本当の親子以上の信頼関係を築き、100歳の誕生日を目前にあの世に旅立った姑の最期を看取ったのでした。そして、生長の家の教えを熱心に布教するようになり、やがて生長の家本部の職員となり、本部講師となり、女性の組織である生長の家白鳩会の副会長として東奔西走し、皆様から惜しまれながら、4年前に定年をむかえ、退職をしました。現在は、祖父を介護しながら、楽しく暮らしています。(引用終わり)

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梅雨に入って

 梅雨に入りました。今年はずいぶん早いようです。5月に入って暖かい日が続くようになり、ハワイのことを思い出すようになっていました。昨年の5月22日に3年間のハワイ滞在を終えて帰ってきて、ちょうど1年が経ちました。とても早く時が過ぎていったような気がします。

 その間、仕事面では新しい部署に移って、色々と新しいことに遭遇してはいますが、内容的にはこれまで積み重ねたものを生かすことができることもあり、大きな変化はなかったのですが、私生活の方はかなり変化に富んでいました。

 海外からの引っ越しは、大きく分けて航空便と船便があり、航空便は10日ほどで到着しますが、船便が到着するまでは早く1カ月ぐらい、遅いと3カ月ぐらいかかることもあり、わが家の荷物が到着したのは私が帰国してから2カ月後ぐらいでした。それから荷物を出し、段ボールを片付け、などとしているうちに、あっという間に半年が過ぎてしまいました。そしてその間に、娘の受験について話し合いを重ね、受験の準備をして(親も含めて)受験をし、住む場所を検討し、その間、大震災が起こり、そして再度の引っ越し……。とても目まぐるしかったです。

 それでも最近はだいぶ落ち着いてきて、家族共々徐々にペースをつかめるようになってきました。

 梅雨はじめじめしてうっとうしい面もありますが、3年間、日本の梅雨を味わっていなかった私は、昨年の梅雨はことのほか、新鮮に感じました。たっぷりの水を浴びて、伸び伸びと葉を茂らせている新緑を見ていると、生きる力をもらっているような気持ちになったのをよく覚えています。梅雨というと、谷口清超・前生長の家総裁の次のご文章を思い出します:

 雨がふる日は、天気が悪い――と、一体誰がきめたのか。カラカラにかわき上った畑は、雨がふる日は天気がよいのだ。そのような「よい天気」にめぐまれたといって、感謝する人も多いのである。では、晴れた日は天気が悪いのか――というと、決してそうではない。雨の日も、風の日も、晴れた日も、秋も冬も夏も、いつも天気がよいのである。いや、よい天気なのだ。それが分れば日々是好日、毎日毎日がよろこびの連続である。(『伸びゆく日々の言葉』204頁)

 今年の梅雨も、雨の恩恵を数え、味わいながら過ごしたいと思います。

 ところで先日の土曜日は初めての授業参観がありました。どの子も、最初は緊張していましたが、先生からの質問に元気よく手を挙げて答えていて、とても微笑ましく思いました。娘も45分の授業中に3回も指してもらって、伸び伸びと授業を受けている様子を知り、嬉しく思いました。

 娘の通っている学校では毎朝20分間、礼拝の時間があります。賛美歌を歌ったり、聖書の一節を朗読したり、そこに書かれている人生訓を先生が説明をします。小学校1年生に説明をするのは難しいことだと思いますが、人生に起る困難をどのように受け止めるかについて、とても上手に話されていたのに感心させられました。

 阿部 哲也

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新しい学校

 4月7日(木)に娘の小学校の入学式がありました。昨年の夏に学校を見学して家族全員がとても気に入り、短い期間ながら受験の準備をした小学校への入学です。(そのときの記事は6回シリーズで初回の分はこちらにあります)

 入学式が木曜日で私にとっての休日だったので、仕事に気兼ねすることなく式に参加できたのは幸いでした。式には、ほとんどの家庭の父親が参加しているのではないかと思うほど多くの父親が参加していて、自分たちのときとは隔世の感があると思いました。

 娘にとっては普段よりも遙かに早い時間に起きて準備をして、学校に着いたのは朝7時半少し過ぎ。学校に入ると、6年生と思しき(実際にそうでした)女の子が寄ってきて、「保護者の方はあちらへどうぞ」と簡単に案内をしてくれた後、娘に向かって「お名前は何と言いますか?」と話しかけ、靴を脱いで上履きに変えるのを手伝ってくれた後、受付のところに連れて行ってくれて、教室まで連れて行ってくれました。6年生は集中的に6月まで1年生の面倒を見るのが伝統だそうです。

 入学式は、中学校、高校に進級する生徒も含めて行われ、また全校生徒の始業式と合わせて行われました。参加したのは、全校生徒・児童と初等部に入学する児童の保護者が参加して行われました。全校生徒・児童は1年生から12年生まで合わせて700人ほどです。学校の理事長、校長のご挨拶は通り一遍ではなく、キリスト教の教えを反映した建学の精神に則り、また震災での人助けのエピソードに触れるなどしながら、「隣人を愛する児童・生徒になってほしい」というメッセージが分かりやすく、力強く発せられていて、大変感動しました。

 今年の1年生は色々な事情で2クラス合計で36人とのことで、1クラス18人の少人数のクラスになりました。多くの子ども達は電車通学ですが、私たち家族は義父の強い意向で、学校の近くに引っ越したので娘は徒歩とスクールバスでの通学です。4月9日から新しい住まいに移り、朝7時過ぎに娘と一緒に家を出て娘を最寄り駅の、スクールバスが止まる場所まで連れて行き、出勤しています。真新しい制服はかなり大きく、教科書が詰まったランドセルは見るからに重そうですが、そのうち慣れて、板に付いてくるのだと思います。

 学校の先生方の説明を聞いていて、子供の個性を大切にしながらじっくり育てたいという気概と責任感を感じたのと、「お子さんとともに保護者の方々もご一緒に学んで頂ければと思います」という言葉を聞き、心新たに、新しいことを学んでいこうと思います。

 阿部 哲也

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娘の日時計日記(2)

 私は有り難いことに、娘が寝る前までに帰ることが出来る日が割合多いので、出来る限り、寝る前には絵本を読み、歯磨きの仕上げ磨きをするようにしています。絵本は、家にある本を読むときもあれば、私が勤めている生長の家本部の近くにある渋谷中央図書館で借りてきた絵本を読む場合もあります。私は通常の日の昼休みは、お弁当を食べた後に図書館で過ごすことが多く、新着の絵本や、季節にあった絵本などを見ていると、娘に読んで聞かせてあげたい本がよく見つかるので、よく借りています。

 昨年の末から、絵本を読み聞かせるときに、娘に「今日あった良かったこと」を聞くようにしています。言わば、『日時計日記』を口頭で付けよう、ということです。そうすることでその日にあった良かったこと、嬉しかったこと、楽しかったことを思い出して、楽しい気持ちで寝ることができれば、と思っています。

 だいたい、娘が見る夢を聞くと、身近なお友達と遊んだり、大きなクッキーやケーキが出てきたり、聞いているだけで楽しくなるような夢を見ているので、いつも明るく、楽しいことを考えているのだと思いますが、その日にあった良い出来事を言語化する練習は、色々な点で役に立つのではないか、と思っています。

 そして、娘が良かったことを話した後には、娘と関連のありそうなことで、私自身が良かったと思うことを話して、「生まれてきてくれて有り難うね。あなたのおかげで、パパとママはとっても幸せだよ」という意味のことを言って「お休み」をすることにしています。そして、自分もそのようにして育ててもらったことへの感謝の気持ちを起こします。

 阿部 哲也

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3年半ぶりの帰省

 昨日は日帰りで、家族で静岡に帰省しました。静岡に行ったのは3年半ぶりです。「近いのでいつでも行ける」という気軽さが逆に、行くのを遠ざけてしまったのは否めません。。。あと、せっかく行くのなら、2人の妹の子ども達とも都合を付けようとするので、日曜日がお休みではない私の勤務日程で合わせるのが難しい、ということもありました。

 ということで、朝8時半に家を出て、東京駅から新幹線ひかり号に乗ること1時間、あっという間に静岡駅に着きました。それで驚いたのが、車内に外国人の方が多いこと。前の席も隣の席も、そして、その前後も。。。どうしてかなあ、と思ったのですが、思い当たるのは、外国の方だけが買える「ジャパンレールパス」のことです。(厳密には、日本国籍以外の旅行者と、日本国籍で外国に永住権を有しているか、日本国外に居住する外国人と結婚している人に購入資格に与えられます)このパスの存在を知ったのは7、8年ぐらい前のことですが、その時は、「のぞみ号」には乗れず、「ひかり」と「こだま」のみ、という条件でした。それで、インターネットで調べてみると、やはり今も「のぞみ号」には乗車不可、でした。だから、多くの外国人の方が「ひかり号」に乗車していた、というのは合点がいきます。ちなみに、新幹線や特急、そして高速バスなどが乗り放題で、1週間で28,300円です。

 静岡駅まで浜松に住む、上の妹の家族が迎えに来てくれていて、母方の堅田家のお墓参りに行きました。3年半ぶりに合った甥はもう6歳になっていて、すっかり男の子らしくなっていました。娘と同い年です。その後、堅田の祖父母の家に行って祖父母を連れて、両親の家に行きました。堅田の祖母は、堅田敦子・元生長の家白鳩会副会長です。現在は、祖父が体が自由に動かないため、介護をしています。祖父は、「つながっている」ときと、そうではないときがありますが、久々の再会を涙を流して喜んでくれました。

 祖父は「神想観、聖経読誦の鬼(いや、仏!)」のようなところがあり、体調を崩すまでは、行をしないことがない人でした。子供の頃によく祖父母の家に遊びに行くと、祖父がソファに座って『生命の實相』や『真理』などの書籍を拝読していたり、また、自転車で生長の家の月刊誌を愛行に行っている姿がよく、印象に残っています。祖父の堅固で、まっすぐな信仰があったればこそ、祖母が導かれ、そして、私にも信仰が引き継がれたことを、心から感謝しています。

 父は、父自身の祖父から信仰を受け継ぎ、青年会、相愛会、講師会で活躍し、昨年の改選まで静岡教区連合会長を務めました。また母も青年会で父と知り合い、現在は白鳩会の支部長をしています。

 今回は、両親、祖父母、上の妹の家族(夫と息子)、下の妹の家族(夫と娘2人)と私の家族3人で、総勢14人が集まりました。とりわけ下の妹の家族は前日の深夜に海外旅行から戻ってきたばかりでしたが、元気に姿を見せてくれました。私の兄弟の子供は合わせて4人で、9歳が1人とあとの3人は6歳で同級生です。娘は顔が似ている自分の従姉妹ととても気があったようで、とても仲良く遊んでいました。

 阿部 哲也

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今年1年ありがとうございました

 今年もあと僅かとなりました。本ブログにお越し頂きました皆様に、心から感謝、お礼申し上げます。

 今年は、生活と仕事の場がハワイから日本に戻るという、家族にとって大きな一年でした。年賀状の作成、年末の買い物や大掃除、その他をしていて、4年ぶりに味わう日本の年末をとても心地良く感じています。

 私は11月の終わりから鈍い頭痛が続き、3週間ぐらい様子を見ても引かなかったので医者にかかって、MRIを撮ってもらったら何も異常がなく、原因はひどい肩こりでした。それから1、2週間して、頭痛はやみました。家内と娘はときどき体調を崩したりして、たった3年間抜けていただけでも、この寒さに体が一所懸命調整していることを窺い知りました。今は、皆、健康です。健康でいられることは、本当に有り難いことです。

 来年も一層、色々なことを学び、ここでご紹介できるよう励みたいと思います。皆様方におかれましては、一層のご指導、ご鞭撻、よろしくお願い申し上げます。

 感謝、合掌。

 阿部 哲也 拝

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